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的山大島のこと⑤

的山大島は素晴らしいところだった。島のいたるところに棚田が広がっていて、真っ青な空の下、風に吹かれて緑の稲がキラキラと揺れている。棚田越しに海も見える。放し飼いのヤギや牛もいる。このような自然の中にいると、不安も安心も過去も未来もなく、ただ今を感じるだけだ。何の考えも頭に浮いてこず自転車を漕いでいたら20分程でJA前に到着した。

すでに男性はバッテリーを手に外で待っていた。

じゃーこれねとバッテリーを私達の自転車のかごに入れると、「では町の説明をしましょう」と頼んだわけではないのだが、突然に町の説明をし始めた。

ここは、非常に興味深いところなんですよ。江戸時代から今に至るまでの建物の移り変わりがこの町一つで全部見られるんです。このパンフレットも私が作ったんですよと神浦地区のことが書かれた資料を渡してきた。

男性はこの島に来た時に、古い建物が沢山残っていることに驚いて、そのまま住みついて建物の保存に努めてきたこと、最初はなかなか理解されず、町の人に賛同を得られなかったことなど、ここを国選定の「重要伝統的建造物群保存地区」になるまでの苦労を語ってくれた。それから、一軒のお店の前にくると「ここはお茶をするところだから」と扉を開けようとしたが開かなかった。そしてもう少ししたら開くよと言った。

それから今度は建物や町並みのどういうところが特徴的なのかを一つ一つ丁寧に説明してくれた。

面白かったのは、平戸が長崎に貿易拠点を奪われてしまった時、代わりの産業としてここで鯨漁が始まり、その鯨を神浦で解体するときに、ショーとして殿様が楽しむための見物台があったことなどを教わったことだ。当時はこの島にもお茶屋まであるくらいの賑わいがあったそうだ。

町を一周して説明が終了となった。

すると「電気が付いていればやっているよ。もう電気が付いてるんじゃなかな」と、またあのお店を勧めてきた。とても日差しの強い日だったから少し休んだ方がいいと心配してくれたのかもしれないが、少し不思議な感じがした。

解散というときに、ところでなぜこの島に来たのかという話になったので、母が亡くなったので生家を探しにきたことを話した。母の旧姓が大浦という名前だと話したら、ここは大浦さんがいっぱいいるからどこの大浦さんか調べるのは難しいねと言われた。しかし、大浦姓の由来を教えてくれた。

大浦という名前は元々紀州の船大工の出身だという。

平戸で貿易が盛んになったので、貿易船を造る職人が紀州から来たが、貿易拠点が長崎に移ったことで今度は鯨漁が盛んになった的山大島に船大工の大浦姓の人が移ってきて、そこから、船大工と一般の大工に分かれていったのだという。

だからこの島は大浦がいっぱいいるんだよとのことだった。

母も知らないであろう名前の由来まで知ることができたことを嬉しく思いお礼を言って別れた。

つづく

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